d-torso story

2010年9月14日 (火)

d-torsoのはじまり(最終回)

 d-torsoのはじまり(最終回)
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 ~アトリエ建設と海外への進出~
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 「私のもともとの専門は建築です。」

 これは、このシリーズの冒頭に書いたことですが、

 
 実は私にとって d-torso はいまだに建築の延長線上にあるのです。

 これについては、なかなか一口には説明できないし、

 今回はすでに「はじまり」の終わり(最終回)なので

 別の機会に >>> それこそ次のシリーズにでも譲ろうと思いますが、

 ただ建築について一つだけ言うと、d-torso事業の当初に思っていたことは

 この製品を販売して得た収益で自分のアトリエを建築する、ということでした。

 自分にとっての理想的な仕事の環境をつくること。

 これがそもそものはじまりでした。


 d-torsoの真髄(しんずい)はその構造にあります。

 私なりの言い方をすれば、これは自分にとっての「小さな建築」


 つまり、小さな建築をたくさんつくって、大きな建築(>>この場合、
 アキ工作社の社屋=アトリエということになりますが)と交換すること。

 これが事業を始めるにあたって目指した唯一の目標で、動機でもありました。

 当然、この建築物の設計者は私自身になる予定でした。


 ところが現実はそうそう甘くない。

 当初の計算では3000体つくったところでアトリエは建築できる公算でした。

 (このことは2001年7月号の日経デザイン誌上でインタビューに応えて
 しっかり書かれています。)
 

 もし、1年で3000体売ったらそれこそ純利益はそこそこのものになるでしょうが
 同じものを3年かけて売るとしたら、固定費のほうが大きくなって利益はでません。


 そんな簡単なことがわからなかったのですから、素人にもホドがある、と
 今になって思いますが、実際はじめはそんなものだったのです。

 これについては1年経ち、そして2年経ったところで、現実が飲込めてきます。
 そうか・・・このままではアトリエは一生涯建たないな、と。


 そこで、銀行の融資を受けるためにビジネスプランをつくりはじめる。
 >>>これについては「はじまり」シリーズ、その5で書いたとおりです。


 そしてもうひとつの問題、自分でアトリエを設計する件。
 これについてはもっと早くに悟りました。


 d-torso製品の設計・製造をおこなう傍ら自分のアトリエの設計をすること
 など時間的にもともと不可能だったです。


 なおかつ、自分が建築主で自分自身のアトリエを設計することは
 コストコントロールだけを取り上げても、これまた困難なことです。
 (建築家が自邸をつくるときに陥るジレンマです)


 自分が納得できるような建築を設計するには何年かかるか分からない。
 仮に資金があったとしてもです。

 そんなとき、出会ったのが建築家の塩塚隆生です。
 正確には、出会いは2001年の暮れです。


 この年のグッドデザイン賞。私はd-torsoで、塩塚さんは「みんなんかん」
 という公共の建物で同賞を受賞しました。それが縁で知り合ったのです。


 彼が過去に設計した建物をいろいろと見せてもらううちに
 私は決断しました。塩塚さんに設計を頼もう、と。


 同じ業界にいましたから同世代の建築家はたいてい知っています。
 そして塩塚さんの建築はそのなかでも群を抜いたものでした。


 当時、私の建築時代からの友人は一様に驚いたものです。

 
 「どうして、自分で設計しないの?」


 でも、このときの決断は私の数少ない”超ファインプレー”の一つだと
 自負しています。


 結果的に、アトリエは私のかつての建築関係の友人たちも認める名建築に
 なりました。

 そして私はと言えば、その後 d-torsoの事業に専念していくことになります。


 そういう意味で、塩塚さんと大分で出会ったことは単にアトリエを設計した
 建築家という関係を超えて、自分にとって大きな意味がありました。

 この出会いが無かったら、私はいまだに「(イワユル)建築」に縛られていた
 かも知れません。

 またしても、不思議な縁です。

 この建物の完成に前後して、ひとり、またひとりと社員が増えていきます。
 これがアキ工作社の第二ステージです。


 人が増えれば、また様々な問題も発生します。反対にひとりでは到底でき
 なかったたことが可能になったりもします。


 ヨーロッパの展示会に出展したのもそのひとつです。


 EUROSHOP 2005。三年に一回、デュッセルドルフで開催される
 ディスプレイ業界最大の見本市です。


 はじめての参加で、右も左も分からぬままの5日間でしたが
 各国の来場者の方々から絶賛をいただきました。


 ほんと。嬉しかった。


 これも今に繋がる大きな自信になっています。
 (海外市場はさすがに厳しく、いまだに手探りの状態ですが)

 展示会関係はまだまだいろいろなエピソードがあるのですが
 終わりも近づいているので、ハショリマス。(>>別の機会に)


 さて、建築と私とd-torso。

 小さな建築がd-torsoということは変わりませんが、

 いまの私にとって建築する対象はd-torsoの事業、アキ工作社という事業体
 そのものです。


 安定的に収益を上げてそれを継続すること。
 もちろんこれを達成しなければ会社として意味を持たないのですが、


 「はじまり」シリーズで書いてきたようにd-torso事業をすすめていくなかで
 常にKEYになるのはそのときどきで出会った人たちです。


 ひとつの事業を支えているのは、それにかかわる人たちの合計です。
 それは会社の内部も外部も関係なく、d-torsoというモノを媒介して繋がって
 いく人の連鎖で、


 あるひとりの人との出会いによって、それまで停滞していた状況をやすやすと
 乗り越えてしまう、そんな経験をしてきました。

 だから。。。建築するのはモノではなく、コトなのだなと最近思うようになり
 ました。人と人のあいだに生起するコト(事)。


 当面はそれがd-torsoの事業になるだろうし、アキ工作社を経営するということ
 なのでしょうが、


 廃校になった小学校を新たな基地として再スタート(これが第三ステージの
 はじまり)した現在、もっと大きな建築対象が視界に広がってきたような
 気もしています。


 小さな建築であるd-torsoを媒介にして。

 より大きな建築を。

 (「d-torsoのはじまり」の終わりに。)


 最後までおつき合いいただきありがとうございました。

 自分自身にとっても懐かしく、また振り返ってみてあらためて学ぶことも
 たくさんありました。


 この続きはいずれどこかで。

 アキ工作社 松岡勇樹

 

 
 ▼塩塚隆生という建築家(blog)
 http://blog.d-torso.jp/matsuoka/2009/12/post-852e.html

 ▼5人の建築家展 ~普遍性と建築~(blog)
 http://blog.d-torso.jp/matsuoka/2010/04/5-067d.html

 ▼d-torso(ディートルソー)製品概要
 http://www.wtv.co.jp/product/

2010年8月24日 (火)

d-torsoのはじまり その6

 d-torsoのはじまり(その六)~ビジネスプラングランプリへの挑戦~

 「大分県ビジネスプラングランプリ」というのは現在の広瀬勝貞大分県知事
 が推進している県内産業の活性化、ベンチャー企業の創出を目的とした制度
 です。

 平成15年から実施されており、今年で第八回を迎えます。

 県内だけでなく県外からも広くビジネスプランを募集し、有識者から構成さ
 れる「ベンチャー目利き委員会」の審査によって優勝者が選ばれます。

 この制度の特徴はなんといってもその賞金の額で、僕がエントリーした
 第二回は賞金総額3000万円でした。


 優勝賞金(補助金)は100%事業に使っていいよ。という

 とっても気前のいい >>> 返済する必要の無い事業資金です。

 

 当時、念願のアトリエは建築がすすんでいるものの、レーザー設備は一台
 きりで、もしもこの機械が故障でもしたら仕事がすべてストップしてしまう。

 すでに銀行からは4000万円の融資を受けているのでこれ以上の借金はムリ。


 そんな状況でしたから、なんとしても新しいレーザー設備を買うためにも
 グランプリの賞金が必要だったのです。しかも一等が。。。

 (前回からのつづき)


 このグランプリの選出にあたって二段階の審査が行われます。


 まず書類審査。

 >>>事業計画の内容、目的、新規性、利益計画などをエントリーフォームに
 書き込んで目利き委員会が審査します。

 (僕のときは第一次選考に残った会社が7社ありました。)


 その後、大分県が第三者の公的調査機関にそれぞれの事業の市場性などの調査
 を委託し資料がまとめられます。

 これには点数(100点満点)が付与され、目利き委員会に報告されます。

 そして、一次選考から2ヶ月後、審査を勝ち残った7社が目利き委員会のまえで
 プレゼンテーションを行い、各賞が決まるわけです。

 (各賞、賞金はその年ごとに目利き委員会が決定、配分します。)

 一次審査が終わった段階で二次審査の説明会がおこなわれ、最終プレゼンの
 メンバーが集められます。


 そして、その説明会ではじめて顔を会わせることになったのが
 「おさかな企画」の卜部(うらべ)社長でした。


 卜部さんはその当時すでに有名人で、
 僕も新聞やテレビで「快眠活魚」を見て知っていたのです。


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 >>>ここで、「快眠活魚」(かいみんかつぎょ)とは?

 簡単に言わせてもらうと
 活きた魚に針を刺して眠らせたまま運ぶ、技術です。

 間違いがあるといけないので、詳しくは「おさかな企画」サイトをご覧下さい。

 ▼おさかな企画
 http://www.kaimin.co.jp/
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 僕も初めてみたときは衝撃でした。
 魚を針で眠らせる、という発想そのものが相当なインパクトなので

 これはもう、

 ライバルは卜部さんだけだ。
 「おさかな企画」を上回るプレゼンを考えないといけないな。

 と、そのとき思いました。


 なぜなら、僕にとってのグランプリは一番でなくてはならなかったのです。

 二等の500万円ではレーザー設備は買えないので、なにがなんでも一等賞金
 が必要でした。

 突然の強力なライバル出現にますますヒートアップして
 絶対に負けないプレゼンをしようと、さらにプランを練り上げ、リハーサルを
 何度も行い、最終審査に臨みました。


 完璧な資料と完璧なプレゼンテーション。

 できることはすべてやって、本番のプレゼン20分。そのあと質疑応答が20分。


 目利き委員会の審査員の反応は上々でした。

 自信もありました。

 ですが、ライバルの卜部さんは活きた魚を持って来て針麻酔のデモをやること
 は想像できましたから、インパクトで凌ぐということはなかなか困難です。

 それでもやることはやった。という充実感をもって会場をあとにしました。

 >>>プレゼンは非公開で他社のプレゼンを見ることはできません。

 そして翌日、

 県庁から電話がかかってきて

 「おめでとうございます。アキ工作社さん一等です!!」


 なんというか、

 嬉しいというより、ホッとしたのを憶えています。
 これで首が繋がったー、という感じでした。

 2005年1月のことです。

 この年は1月にグランプリの受賞決定。
 2月にはじめてのヨーロッパの展示会出展。
 4月に新社屋の完成、と

 息つく暇もないくらいスピードに乗っていましたので
 ゆっくり喜びに浸る時間もありませんでした。


 でも今振り返ってみると、このグランプリ受賞がいかに大きかったかわかります。

 少なくとも、通常3年かかる道のりをこの1等賞金を使って、
 1年足らずに短縮できたのですから。

 
 その後も卜部さんとはときどき会って近況を語り合います。
 とにかく熱い人で、いつも元気をもらっています。


 彼が同期にいてくれたことは、自分にとってもd-torso事業にとっても
 すごく大きな意味がありました。


 ありがとうございます。 >>> 卜部さん。これからもよろしく。
 

 さて、2月3日にグランプリの授賞式がおこなわれて
 その翌日にはデュッセルドルフの展示会に向かう、というハードスケジュールでした。


 次回ははじめての海外展示会EUROSHOP2005のこと、念願のアトリエ完成のことを
 お話ししたいと思います。


 (次回につづく)


 次回「d-torsoのはじまり」最終回です。
 アトリエ完成がアキ工作社の第一ステージの目標でした。

 ここでひとまず締めたいと思います。

 最終回にご期待下さい。

 ▼第八回大分県ビジネスプラングランプリの応募について

 今年のグランプリ応募は8月31日までです。
 自分のアイデアで挑戦してみよう!と思う人はぜひ登録を。
 審査員の先生もみな信頼できるメンバーです。

 まず、手をあげることが大事だと、僕も実感しました。

 資料はこちらから
 http://www.yukichi.jp/


 ▼d-torso(ディートルソー)製品概要
 http://www.wtv.co.jp/product/

2010年7月20日 (火)

d-torso のはじまり その5

 d-torsoのはじまり(その五)~ビジネスプランをつくる~


 前回もお話ししましたが、

 グッドデザイン賞(Gマーク)を受賞したからといって
 それがすぐ商品の販売に繋がるというものではないのです。残念ながら。。。

 >>>当然、僕も最初は期待していたのですが、悲しいかなこれが現実でした。
 

 ただし、メディアの露出が高くなったことは事実です。

 特にd-torsoの場合はビジュアルインパクトが強い商品なので
 よけいにニュース性があったのだと思います。


 新聞、雑誌、テレビと取材がつづき
 それをきっかけに、だんだんと人の繋がりが広がっていきました。

 (前回からのつづき)

 となり町のお醤油屋さんの倉庫を間借りして
 設計、製造、梱包発送、すべてひとりでおこなっていたわけですが、
 
 そのころはまだ、自己資金だけで事業をまわしていました。

 最初のレーザー設備の購入に資金が必要だっただけで、
 僕ひとりですから、固定費も限られています。

 材料となる段ボールシートは、もともとそんなに高いものではないので
 材料仕入にもそれほどお金がかからない。

 >>> 一人でやっていけた、というのはそんなところに理由があったのかも
     知れません。
 

 それでも、なんだかんだと要り用はあるわけで
 事業としてはあいかわらず赤字が続いていました。

 当時アキ工作社の事業はd-torsoと妻のニット事業、二本立てで運営していたので
 ほとんどニット事業の利益で生活していたと言えます。

 当然、経理も僕がやっているわけで
 恥ずかしながら >>> いわゆる「どんぶり勘定」でしたから
 なんとなくやっていってる、という曖昧なイメージがあるだけでした。

 そんななか、グッドデザイン賞を受賞したことによってマスコミや行政関係の
 注目を受けることになります。

 当時の新聞掲載の記事や地元TV局のニュースを見て、
 仕事場に訪ねて来られる方がだんだんと増えてきました。

 最初の出会いは当時、大分県産業創造機構(以後キコウと呼びます)という県内の
 中小企業を支援する財団法人に所属する相談員のハタさんでした。

 「社長のところは、とっても面白い事業だから県の経営革新の承認をとって
 事業を発展させましょうよ!」

 
 経営革新計画?? 説明を受けても当時の僕はよく理解できてなくて。。。
 それでもハタさんはちょくちょく仕事場をのぞきにきてくれました。

 そして、ハタさんがキコウを退かれることになって、代わりにと紹介されたのが
 工藤順一さんという同じく経営相談員の方でした。>>>彼は税理士でもあります。

 クドウさんもハタさん以上にd-torsoに興味をもってくれて、ぜひ経営革新に通そう
 と。。。そこから二人三脚でビジネスプランづくりが始まります。

 クドウさんにはもっとも初歩的なところから・・・
 それこそ、貸借対照表と損益計算書の見方から教わりました。
 あらためて感謝。です。

 ところで、経営革新計画の承認を得るとでどんないいことがあるかというと、


 まず第一に、銀行から低金利の制度融資を受けることができる、ということ。

 この当時の僕は自分自身のアトリエを建てること、自分にとって最良の仕事環境を
 つくること、が第一の目標でした。(これはいまでも変わりませんが)

 当時のd-torso事業の売上高は500万円にも満たないくらいで、工場を建てるには
 少なくとも4000万円の資金が必要になります。

 当然、資金調達には銀行から融資を受けることが必要です。
 それまで自己資金だけで運営していた会社がはじめて借り入れをしなければならない。


 でも、


 普通に考えて年商500万足らずの会社に4000万を貸す銀行があるわけない。

 そこで、事業計画を立て、県知事の承認を得て、将来性を担保に資金を借りる。
 これが経営革新計画に臨んだ理由です。


 そして、このとき活躍してくれた、もう一人の人物がいました。
 それが地銀、地元支店の当時の担当者、三原さんでした。

 ミハラさんも同じくd-torsoにすっごく惚れ込んで、
 経営革新の承認と同時進行で、銀行内部で活発に動いてくれて、
 結果、県知事の承認を得るのと同時タイミングで、4000万円の融資を実行という
 ところにこぎ着けたのです。


 ほんとに、いろいろな人たちの応援で事業が成り立っている、というのを実感します。

 >>> このミハラさん、さぞや銀行で偉くなるだろうな、と思っていたら
 あっさり銀行を退かれて、今は家業をついで僕と同じ経営者になっています。
 (いまでも時々会って、酒を飲みながらお互いの事業の話しをするいい友人です)

 僕にとって、モノをつくることは専門でもあるし、好きなことでもあるので
 自分の才能を疑ったことは一度もありませんが、

 元来、お金の勘定や「売る」ことについては昔からずっと避けてきた感があったので
 そのこと自体が僕にとっては試練でした。

 それでもまあ、なんとかなるもんです。>>> いまだ続いているのですから。

 この経営革新の前後、いろんなところでd-torso事業のプレゼンテーションを
 行いました。ベンチャー企業の会や、行政の担当部署、投資家などを相手に
 年間20件くらいやったでしょうか。

 ビジネスプランというのはただ単に数字をならべるものではなくて
 事業そのものにどんな魅力があるかを相手に納得してもらうことが重要なのです。
 
 それはもう嫌というほど、プレゼンしました。
 そのほとんどが、クドウさんが仕込んでくれた発表会でした。
 まず、慣れることが大事。だということです。

 そしてこれらのビジネスプランプレゼンテーションの最終目標が
 賞金総額3000万円の大分県ビジネスプラングランプリでした。

 一等になると最大2000万円の賞金がもらえる、というビッグチャンスです。

 ああ、この1等賞金があれば、新しいレーザー機が買える!

 その希望を胸に、最終プレゼンにむけビジネスプランとプレゼン能力を
 日々ブラッシュアップしていったわけです。
 


 さて、そのビジネスプラングランプリの予選&決勝のお話は次の号で詳しく
 お伝えします。
 

 (次回につづく)


 当時、お世話になって、
 ここに名前が出ていないヒトもたくさんいます。

 いまから思えば、このタイミングで会わなければ出会えない、といったひとが
 ほとんどでした。

 出会いはいつも不思議なものです。
 その時はわからないものですが。

 さて次回もお楽しみに!


 ▼段ボール製組立て式マネキン d-torso(ディートルソー)
 http://www.d-torso.jp/fs/akico/gr44/gd208


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2010年6月29日 (火)

d-torso のはじまり その4

 d-torsoのはじまり(その四)~田舎ライフのはじまり~


 引っ越すと決めてからは一気にコトが運びました。

 20年近く暮らしたとはいえ、東京には全く未練はありませんでしたから
 メンタル的には至極あっさりしたものでした。

 それよりもなによりも、事業自体の空白をつくるわけにはいかないので
 とにかく新しい事業所を探さなければなりません。
 

 (前回からのつづき)


 僕が生まれたのは大分県の国東半島にある安岐町というところです。

 町(まち)と名乗るのが恥ずかしいぐらいの小さな町で
 いまでこそ大分空港があり、進出企業の工場が点在する町ですが
 当時は農業と漁業が中心の(子供なりのイメージですが)
 日本国中どこにでもあるような、サビレきったところでした。


 父親は転勤族のサラリーマンだったので
 この安岐町には二歳半くらいまでしか住んでおらず、
 以後二年ごとの引っ越しを繰り返し、
 安岐町の祖父母が住む実家に帰るのは盆と正月くらいのものでした。


 当然、幼なじみと言えるような友人もいないので
 いざ物件を探す段になると、ツテというのは
 両親の知り合いくらいしかいなくて・・・かなり難航しましたが
 たまたま隣町のお醤油屋さんの倉庫が空くということで
 すぐさま契約を結び、レーザー機とパソコンを運び込みました。


 倉庫はスレート葺き、夏はかなりの高温になるので
 建物の中にホームセンターで買ってきた材料をツギハギして小屋をつくり
 そこに空調機を引き込んでレーザー室にしました。


 とりあえず、これで生産体制はできたわけです。
 

 さて、次は家を探さなければなりません。


 引っ越した当初は実家の二階に寝泊まりしていましたが
 妻も一ヶ月遅れで越してくるのでそうそうゆっくりしてはいられない。。。

 数少ない不動産情報をあたって見つけたのは
 山の中の一軒家(たぶん、間違って建てられたモデルルーム)でした。
 東京の住宅事情を思えば破格の家賃で、庭付きで堂々の4LDKです。
 近隣は同じようなつくりの家が両隣に一軒ずつ、
 その他は広大な空き地でした。

 ここはミカン山を削ってつくった造成地で、四方も山と田んぼだけです。

 >>> 間違って建てられたと言ったのは、
 私たちが出て行った後もいまだに契約者がいない・・・
 最初の三軒(モデルルーム含む)限りの住宅地だからです。
 <<< デベロッパーの思惑が外れたんですね。


 でも自然環境は抜群です。空気は美味しいし、朝夕の山の景色は
 言葉にできないほど美しい。

 東京から越して来た身としては、これこそが「人間らしい生活」なんだと、
 その当時は思ったものです。


 しかし、ここで大きな問題がひとつ。 >>> 車がない。

 ・・・そもそも僕は運転免許を持っていなかったのです。


 言うまでもなく、田舎ライフで自動車は必須です。
 車が無いと生きていけない、といっても過言ではありません。
 なにしろ、スーパーに行くのも、歩けば50分くらいかかるところですから。

 そこで、しばらくは自転車で隣町の工場まで往復しながら
 夕方から自動車教習所へ通う日々が続きました。

 (今から思えばとっても健康的な日々でした)


 そんなこんなで、やっと免許を取って仕事にも生活にも慣れてきた
 その年の夏頃、
 
 一本の電話がありました。


 それは日本産業デザイン振興会からの電話でした。


 この財団法人、言わずと知れたグッドデザイン賞を運営する団体です。
 当然それは僕も知っていましたが。

 その年グッドデザイン賞に応募していたわけでもなく
 まさに唐突な(タナボタの)知らせでした。

 「グッドデザイン賞の事務局ですが・・・

 この度、審査員推薦枠で御社の製品(d-torso)がグッドデザイン賞に

 ノミネートされました。お受けになりますか?」


 (そのとき初めて知ったけど、一般応募とは別に毎年審査員が
 推薦する製品があるとのことでした)
 

 まず、どこの誰が推薦してくれたのか? そもそも、それが不思議でした。

 だって・・・大分に移って細々と仕事をしていたその時点では
 d-torsoの出荷総数は累計100体にも満たないくらいだったのですから。
 え? d-torso 何処で見たの? という感じです。


 だから僕にとってはデザインが評価されたということよりも
 まずプロダクトとして、工業製品として認めてくれたんだ、
 という喜びのほうがはるかに大きかったのです。

 設計、製造、梱包、発送、すべて僕がひとりで行う、
 たった一人のメーカーですから。

 しかも「ド」がつくような田舎の醤油やの倉庫のなかで。

 その年初めて行われたグッドデザイン賞受賞製品の内覧会の
 一般人気投票でd-torsoは第7位になりました。
 トヨタのソアラが第6位ですから、
 総数1300製品のなかの7位は我ながら誇れる数字です。

 また、デザイナーの山中俊治さんが著書の中でd-torsoについて
 好評してくれたり、当時審査委員長だった川崎和男さんを特集した
 NHKスペシャルでもd-torsoが紹介されたりして、家族でで喜んだのを
 思い出します。


 どこのどなたが推薦してくれたのか、これは今でも謎ですが
 感謝 。。。。です。


 グッドデザイン賞を受賞したからといって
 売上げが伸びる、といったものでは決して無いのですが
 (世間では勘違いされがちですけど)

 それでもこの受賞はアキ工作社にとってひとつのターニングポイントに
 なったと思います。


 これは自分自身にとっても同様で、
 評価されるということの意味をはじめて知りました。
 
 若い頃は他人の評価は関係ないヨ!とカッコつけていましたが
 かえって謙虚に受け止められるようになったような気がします。

 あいかわらずの一人メーカーの時代がこのあとも3年以上つづきますが
 このあたりから、僕のまわりの景色が急速に変わり始めます。


 その辺のお話は次の号で。
 

 (次回につづく)


 今回は長くなりすぎてすみません。
 仕事はヒマだったけど濃い時間でした。
 この続きは次回、わたしの当番のd-torso NEWSにて。

 お楽しみに!

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2010年6月20日 (日)

d-torso のはじまり その3

 d-torsoのはじまり(その三)~d-torso 製品化への道のり~


 d-torso 初号機をカッターで切り出して組立てたときは
 泣きたくなるほどたいへんでしたが、

 製品として量産化するということは、
 手作業とは全く種類の異なった問題があるのです。

 私自身も、それまではなにげなく使っていた工業製品の数々を
 あらためて見直すことになりました。


 (前回からのつづき)


 段ボールを「切る」方法を試行錯誤した結果、
 最終的にレーザーに行き着いたのですが
 レーザーが紙を焦がすという問題は依然として未解決でした。

 そして最終的には d-torso 専用のレーザーカッターをつくる必要がある、
 というところに行き着くのです。

 そのきっかけになったのは、ある人物との出会いでした。

 尼崎彫刻工業の現会長、荻野寛一郎氏です。


 当時はアマテックというレーザー専門の別会社があって
 私はネット検索でこの会社を発見し、はじめて電話したのです。
 ・・・11年前のことです。   

 折しも荻野社長(当時)が数日後に東京出張の予定があるということで
 当時私が住んでいた柏市までアシをのばしてもらいました。

 柏駅前のとある喫茶店で待合せし、私はd-torsoの1/3縮尺模型を持って
 行ったのです。
 
 
 「こんなものを作りたいんですけど・・・・」


 それまでの制作の経緯を説明し、焦げの問題、コストの問題などなど
 レーザーのもっとも基本的なところから教えてもらいました。
 そして、荻野氏ご自身の経歴についても。

 驚いたことに、レーザー機械は発振器以外すべて荻野氏が自分で設計し、
 組みたてているのだということ。それもほとんど独学で。
 

 (>>> 荻野会長の人となりについてはいつかブログでご紹介します)


 最初はアマテックに賃加工で製造を発注していたのですが
 開発のスピードを上げるためにはどうしても手もとにレーザーが欲しい。

 それでアマッテックが使っていた中古のレーザーを改造してもらって
 段ボール専用のレーザーカッターを製作してもらったのです。

 段ボールの焦げを最小限に抑えるためにレーザーの出力とスピード、
 そしてアシストエアのバランスが肝になりました。


 注)アシストエア=レーザー光線を射出するとき、同時に圧縮空気を
   切断箇所に吹き付ける


 これがd-torsoレーザーの一号機で、以来この10年間で4台のレーザー機を
 製作してもらいました。もちろん新しくなるたびに性能も上がり、
 最新機は一号機と比べて、10倍以上のスピードが出せるようになっています。

 

 そしてこのレーザー設備一式、当時の価格は約500万円。
 立ち上げたばかりのアキ工作社にとって、はじめての大きい投資でした。

 会社と言っても私一人なので、この先事業として成り立つかどうかわからない。
 d-torsoにそんな大金をつぎ込んでいいのか?

 当然周りの反対意見もあったのですが、私としてはレーザー機がないと
 これ以上先に進めないと感じていたので、なんとか資金をかき集めて購入しま
 した。

 当時わたしは友人のアーティスト、デザイナーと三人で羽田の廃業した町工場を
 借りてスタジオにしていて、このレーザー機はそこに置くことになりました。
 そして、いざ自社生産というときに・・・


 ・・・問題発生。


 実際レーザーを稼働させ始めると騒音がことのほか大きいのです。
 レーザー自体のキーーンという高周波と
 コンプレッサーのドッドッドッ・・・という重低音。
 鉄骨造の建物ではとくに響きます。

 同居のメンバーからも苦情が出てきて
 やむなく引っ越しすることになりました。

 東京都内でも作業場になる物件をいろいろと探しました。
 でも・・・あるにはあるが、家賃が高すぎる。


 いっそ、実家のある安岐町(大分国東市)に帰ろうか!


 (もともと会社の登記は安岐町で行っており>>>だからアキ工作社
 ゆくゆくは田舎に引っ越すつもりではあったのですが)


 ・・・ということで、そこは思い切りよく
 翌月には引っ越しのはこびとなりました。
 2001年2月のことです。

 故郷と言っても、私自身は3歳くらいまでしか住んでおらず
 幼なじみといえる友人もいません。老いた両親が住んでいるだけでした。

 その両親のツテで醤油屋さんの倉庫をお借りして
 そこにレーザーを設置し、田舎での生活&d-torso事業がスタートすることに
 なります。


 自社生産が可能な環境がようやくできました。

 極小サイズながらメーカーとしてのスタートです。


 (次回につづく)

 この続きは次回、わたしの当番のd-torso NEWSにて。

 お楽しみに!


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2010年5月 4日 (火)

d-torso のはじまり その2

 d-torsoのはじまり(その二)~1998年、アキ工作社設立~


 妻のニットの展示会ではじめて発表した段ボール製マネキン。
 関係者のアドバイスもあって、展示会後すぐに意匠登録を特許庁に
 出願します。

 通常は弁理士に頼んで手続きを行うのですが、手数料が最低30万円
 はかかります。前回もお話ししたように時間はあるけど、お金がない
 生活だったので、書類はすべて自分で作成することにしました。

 幸い建築実務の経験があったので、(法律関係の文章などには慣れて
 いましたから)書類の作成も別段苦労はしませんでしたが、


 ここからがたいへんでした。

 出願から1年半後、拒絶通知がきます。
 そうとうショックでしたが、補正手続きをして提出。
 それからまた半年後に2度目の拒絶通知がきます。
 さすがにメゲそうになりますが、
 今度は直接特許庁の担当官に会いにいって、
 意匠の新規性を説明し、再度提出。

 結局登録できたのは出願から2年半後、1998年の4月でした。


 >>>やっぱりこういうものはプロに頼むべきだと思いました。
 弁理士に頼んでいたら、たぶんこんなに時間はかからなったでしょう。

 この時点で、自分で事業化するつもりはまったくありませんでした。

 設計したり、モノをつくったりというのは専門分野ですが
 モノを売ったり、お金の勘定したりというのは、全くダメでしたから。


 そこで、関係ありそうな企業に案内を出すことにしました。

 「こんなのできましたけど、商品化しませんか?」というような内容です。
 全部で20社くらいに資料を郵送しました。
 相手はアイデア商品を制作する会社や段ボール会社などです。


 しかし、・・・待てど暮らせど、返事はいっこうにありません。
 やっと返事がきたか、と思ったら封筒の中に500円の図書券が1枚?

 「たいへんよくがんばりました!」?? まったくトホホな状態です。


 結局その他はすべて空振りでした。


 >>> しかし、このまま埋もれさせるのはあまりにもったいない。


 しょうがないから自分で事業化することになったのです。
 1998年7月3日。限りなくモチベーションの低い船出でした。

 さて、事業化の準備としては、製品の量産方法を考えるということから
 はじまります。>>>いちいち手作業で切っていては採算が合いませんから。


 最初に試したのは型抜きです。

 これは段ボール箱をつくるときの一般的な方法で、木型に圧力をかけて、
 段ボールシートを打ち抜くのですが、

 この方法だとどうやっても段ボールの断面が潰れてしまいます。

 d-torsoの最大の特徴は個々の部品のシャープな切断面にありますから
 断面がきれいでないとハナシになりません。>>> だから、これはNG。


 それからは、ありとあらゆる「切る」方法を試しました。
 刃物で切る(サンプルカッター)、水で切る(ウォータージェットカッター)
 そして最終的に行き着いたのがレーザーカッターでした。
 
 つまり、焼き切るという方法です。

 ですがこの方法には細密加工ができるという利点と共に大きな欠点があります。
 紙を焼き切るわけですから、当然「焦げ」が残ります。


 この「焦げ=炭化」をできる限り少なくするというのが次の大きな課題でした。


 (次回につづく)

 この続きは次回、わたしの当番のd-torso NEWSにて。

 お楽しみに!


 以上はメルマガに連載中の「d-torso のはじまり」の第二回目配信です。

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2010年5月 3日 (月)

d-torso のはじまり その1

 こんにちは。アキ工作社の松岡です。

 先月から週ごとに執筆者を交代してお届けしているd-torso NEWS
 今週はわたくし松岡の第二回目です。よろしくお願いいたします。


 アキ工作社は製品や事業自体が珍しいこともあって、会社設立当初
 から今日に至るまで、マスメディアの皆さんに取材していただく機会
 がとても多いのです。そして、取材の中で決まって聞かれるのが、

 「どういうきっかけでこの商品をつくることになったのか?」

 という質問です。


 それに対して私は、これまで何百回となく同じお応えをしてきたわけ
 ですが、考えてみたら自社のサイトにもその辺りの経緯がどこにも
 紹介されていないな、と。

 そこで遅ればせながら、あらためてd-torso 開発の経緯について
 ご紹介しようと思います。
 
 ちょっと長くなりそうなので、わたくしの当番の週に
 複数回に分けて配信したいと思います。


 みなさま、最後までおつきあい願えれば嬉しいです。


 アキ工作社 松岡勇樹


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 d-torsoのはじまり(その一)~はじまりは1995年~

 私のもともとの専門は建築です。
 大学の建築学科を卒業して、実務は構造設計をやっていました。


 その後、勤めていた設計事務所をやめてフリーで活動していたころ、
 (私の妻で)ニットデザイナーの竹下洋子がはじめての展示会を渋谷で行う
 ことになりました。渋谷パルコの地下、ロゴスギャラリーです。

 1995年、いまから15年前。千葉県柏市でのおはなしです。

 この展示会でニット作品を展示するためのマネキン(ボディー)
 が必要だということで、すぐに探しはじめました。


 ・・・が、既製品で作品に合うボディーはなかなか見つかりません。


 私自身、「お金は無いけど時間だけはある」という状態だったので
 いっそのこと自分で作ってみようか! ということになり
 第一号機の試作がはじまりました。


 「何故、ダンボールなのか?」


 これもよく質問されることですが、
 要するに、材料を買うお金がなかったということです。


 最初は古段ボール箱を潰して、切り抜いていましたが
 新品をシートで購入してもそれほど高いものではありませんでしたので
 以後は近くの段ボール屋さんからシートで仕入れるようになりました。


 当時、柏市の自宅にはパソコンも無かったので
 10号サイズの既製品ボディーを鉛筆でデッサンして型をつくり
 それを段ボールシートに鉛筆で書き写して、
 その線に沿ってカッターを入れるという作業を延々と繰り返して
 いました。


 一体分の部品を切り出すのにまる一日かかります。
 夕方頃には腕の感覚がなくなってきます。


 そうして、最初の試作が出来上がりました。


 で、・・・自分的にも「けっこういけるんじゃない?」と。
 「これっていままで見たこと無いよねェ?」と、自画自賛しながら

 ロゴスギャラリーでの展示会初日を迎えます。

 この展示会のために5体制作しました。
 (いまから思えばよくつくったなーと思います。)


 ▼そのときの展示会の写真がこれ。(現存するのはこの写真2枚だけ)

 d-torso プロトタイプモデル

First_a


First_b

 懐かしいなァ。

 現行の最新モデルと比較するといかにも無骨なつくりなのですが、
 手で切り抜いただけあって味わいがあります。
 (しかもベースはコンクリートブロックですから)

 ニット作品の評判もすこぶるよかったのですが、
 このとき展示に使用していたボディーも関係者の注目を集めました。


 「アパレル業界はすぐまねするからパテントとっといたほうがいいよ」

 という、関係者のアドバイスもあって、それからすぐに意匠登録の書類を
 自分で作成して特許庁に出すことになります。

 これが「d-torso のはじまり」のはじまりのくだり。

 実際、会社を作って製品化にいたるまでには、ここからさらに丸3年
 かかることになります。(つづく)

 この続きは次回、わたしの当番のd-torso NEWSにて。

 お楽しみに!


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