学年の意識
最近ハマっているのがこれ。ガチャポンのクローズ&ワースト/フィギア。
近所のブックス豊後武蔵店の玄関に置いてあるガチャポンで買ったもの。
なかなか揃わないので、ついつい意地になって、2つ、3つと買ってしまう。
しかもあんまり似ていないのに。
ここ10年くらい週刊マンガ誌を読む機会が全くないので知らなかったのだが、三池崇史監督の映画がきっかけでコミックを読んでみたらことのほか面白かった。魅力はキャラクターだ。
▼リンダマン/林田 恵 >>> 似てない。
▼武装戦線の河内 鉄生 >>> 全く似ていない。
▼武装戦線の九能 龍信 >>> このなかでは似ているほう。
昔からこのての”不良もの”は少年マンガ誌によく連載されていたものだが、このクローズのシリーズが成功しているのは、「学年」という切り分け方を明確に(徹底的に)行ったことだと思う。様々な派閥、相当なカズのキャラクターが登場してくるのだが、登場人物たち自身が学年(世代)をすごく意識していて、読むほうもそれに引っ張られて、関係がすっきりと読めるのだ。
これはひとつの発明かも。と、感心しながら読んでいる。
ウィキペディアで検索するとこの人間関係が年代別にずらっと出てくる。(どなたが書いてくれたものか、とても詳細に)
そもそも作品の成り立ち自体が最初からアーカイブ的なのだ。
そして、そういうものはフィギアになっても必ずヒットする。これは公式のようなものだ。
たとえフィギアがちっとも似てないとしても。
この「学年の意識」というものが日本に特有の傾向なのか?よその国にもあることなのかはわからない。ただ、自分自身のなかにもこうゆう意識があることはよくわかる。
たとえば、ごく最近仕事関係で出会ったひとでも、地元銀行の支店長、広告代理店のアートディレクター、僕と同じ寅年生まれというだけで不思議とシンパシーを感じてしまう。47歳にもなればそれなりのポジションで仕事をしているので、いままで上の世代に隠れていた存在が突然浮上してくる、といったことがままあるのだ。で、なんとなくお互いの時間経過が想像できるから、なにかと話しが早い。
連帯感、といったものとも少し違うような気がするが。。。よくわからない。
雪山で遭難して、他の生存者を発見したような。。。お、他にもまだ生きていたか!というような発見の嬉しさだろうか?
自分の事はよくわからないが、このシリーズの「学年意識」という手法が時間をフラットに見せ、キャラクターを際立たせているのは確かなことだ。最近続編が再開されたらしいが、できればこのシリーズ、この先何世代も続けていって欲しいものだ。





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